銀色の記憶【1】
物心ついた時から、厳しい環境の中に自分が置かれていることを彼女は悟った。
彼女の一派は里の頭領で、一人娘の彼女は自分がいつかその地位に就くことを知っていた。
「すず」
「はい、おじいさま」
「お前にはまだまだ修行が足りぬぞ、分かっておるのか」
「はい、承知しております」
自分を慕う周りの家の子供のように、祖父と楽しい会話の一つや二つをしたがっていた。
しかし、彼女はそれができないことを知っていた。
「それに最近、お前はどこか浮ついている。違うか?」
口答えする気はなかった。
浮ついている――それよりむしろ、動揺しているという方が正しいのかもしれない。
「あのことはお前を苦しめたかもしれない。しかし、それは忍としてのさだめだ。分かっておろう」
「もちろんです」
「もっと冷酷になれ。お前にはいずれこの里を治めてもらうのだ。その自覚はあるのか」
「ございます」
「嘘をつけ」
それは低くすごみのある声だった。彼女は身をすくめる。
「お前はなにかに悩んでおろう。もしくは精神がひどく不安定であるはずだ。忍たる者がそれでよいのか?」
「いいえ、違います」
「本当に分かっておるのか?」
彼女は少し黙ったあと、畳の目を見ながら言った。
「わたしは、決して修行を軽視しているわけではございません。もちろん、わたしが全てにおいて完璧な人間だとも思っておりません」
その沈黙に従い、先を継ぐ。
「ですが、わたしも毎日修行のことばかりを考えているわけではありません。わたしにも、大切にしたいことが――」
「たわけ」
彼女も今度は黙った。そして自分の言ったことを後悔した。
「お前がそんなことを言える立場か。それは自分の立場を自覚した上での発言か」
「…………」
「お前がなにかに悩んでいることは知っている。人は誰しもなにかに悩むものだ。しかしそれは自我が曖昧だからである。自分の悩みや迷いを正当化するために、心にもないことを言うでない」
「下がれ」と言われ、彼女は黙って部屋を出た。きちんと「失礼します」を忘れずに。
祖父はああ言った。「心にもないことを言うな」と。確かに今の自分には、大切なことなど修行以外になにもない。
しかし、周りの子供たちが楽しそうにはしゃぐ様子を見ると、胸が苦しくなる。
親に甘える彼らも、もう2年ほど経てば修行に身を投じることとなるだろう。自分はそれよりも少し早いだけ……そう割り切っても疑問が浮かぶ。
この家に生まれさえしなければ、この姓を背負いさえしなければ、自分も彼らのように笑えたのだろうか、と――
そんな不安をかき消すかのように首を振り、彼女は修行に出掛けた。
*
自分のやらなければならないことは分かっていた。
しかし彼女は時々、むしょうにその義務を壊したくなる。怒られることは重々承知で。
今日は森に出て、敵を見つけては戦う修行。森には彼女よりも大きい図体をしたものや、毒を持ったものもたくさん居る。
正直少し怖かった。できることなら逃げ出したかった。
「きっちりやらなければなりません」
彼女は自分に言い聞かせた。幼い自分でも、やらなければいけないことは分かっている。
彼女は腰刀に手を添えた。
「たあっ!」
首元めがけて刀を突き刺す。相手は喉をやられて、抜け出る空気の音と共に呻き声をあげた。
大分日も高くなってきた。彼女は息をつき、刀を鞘に戻した。
少し傷を負ってしまったその体をいたわり、彼女はゆっくりと木陰に腰を下ろす。そして背中から薬草を出し、怪我した場所を剥き出しにした。
薬草がひりひりとしみる。この痛さには彼女も思わず顔をしかめる。その度に、自分の力不足を痛感する。
そろそろ里に戻らなければ、今日はこのくらいで引き上げよう。そう思って薬草をしまった時だった。
突然振動する羽音が聞こえたかと思ったら、彼女の周りを蜂が覆っていた。
「不意打ちを狙うとは!」
普通だったら簡単に倒すだろう。その程度の敵だ。しかし今は負傷している。そして刀に手を掛けてすらいない。全く無防備な背中を晒している。
「くっ!」
この場面を祖父に見られたなら、「忍びたる者いつ何時も周りに神経を張りめぐらせておけ!」と怒鳴られたことだろう。
飛んでくる針。避けなければ。当たっては毒が回る。
刀を抜くより早く、敵から針が発射された。
「つうっ!」
かたびらの上から刺されば幸いだったのに、その針は見事に彼女の肌を刺した。
「早く……処置をしなくては……!」
朦朧とする意識。まさか、この程度の奴らに白旗を挙げなければならないなんて。
また祖父に怒られる。迷惑を掛けてしまう。次期頭領ともあろう彼女が、それくらいのことで人に世話になるなんて耐えられなかった。
崩れる膝。そんな彼女に向かい、敵はどんどんと針を飛ばしてくる。
ほとんどは装備に弾かれる。しかし、ところどころ皮膚に刺さる針の痛みだけが、彼女をこの現実に繋ぎとめた。
このままここで毒が回るのを待つだけなのか。
そんなこと、耐えられない。
次期頭領となる自分が、ここで果てていいのか。
「……嫌だ……」
かすれた情けない声をあげた瞬間、針の刺さる痛みが消え去った。
最初は毒のせいで呼び起こされた幻覚かと思われたが、違った。針が刺さったあとの、じくじくとした痛みだけが体を襲う。
なにが起こったのか。いつの間にか瞑っていた目を開けると、そこには、輪郭の輝く人の姿があった。
「……あなたは……誰……?」
荒い息遣いが漏れる。咳をする気力すらない。
「てめえら、それでも一人前のモンスターかよ」
乱暴な口調。
「嫌がってる女の子によってたかってよぉ」
優しさを含んだ台詞。
「そんなてめえらは、俺が成敗しちゃ[#「ちゃ」に傍点]る!」
その途端、羽音が一瞬でやんだ。
それと共に、彼女の意識も遠のいた。
*
温かくてふわふわとしたものに包まれている感じがした。
なんとも心地よくて懐かしい感じ。
夢にもぐりこむような、いつまでもこのままたゆたっていたいような気分。
こんな眠り方をしたのは、いつぶりだろう――
「――い、おい」
遠くから優しい声がする。
「お嬢ちゃん」
そっと目を開けると、そこには見知らぬ男性の顔があった。
それを見て、彼女はさっと身を翻した。正確には、翻そうと思ったが体の節々が痛くて変に崩れてしまった、のだが。
「おいおい、あまり無茶すんなよ。傍目からじゃ分かんないけど、君、結構な傷を負ってたんだぜ。まあ、それでもそんなに動けるなんてすごいな。常人だったら1日2日は寝こんでるっていうのに」
彼はけらけらと笑った。馬鹿にされているようでいい気はしない。
彼女はなにを言おうか少し思案したあと、ゆっくりと口を開いた。
「……あなたは……?」
「俺はしろがね。よろしくな」
「……名字は、ないのですか」
「名乗っちゃいけねぇ事情があってよ」
彼は髪の毛をかき上げながら、寂しそうに笑った。遠い過去を懐かしむようなひどく辛そうな笑み。
何故名乗ってはいけないのか、彼女にはさっぱり見当がつかなかった。
「君の名前は?」
「すず。……藤林、すず」
すると彼は目を丸くした。
「ひゃー、驚いた。まさか、藤林家の子とは思わなかった。頭領の一派だろ?」
「……はい」
「俺も一応忍者みたいなもんだからな。それくらいは知ってるよ」
「…………」
「じゃあ、君もいずれは頭領になるんだ。丁重に扱わないといけないな」
「やめてください」
彼女はきっ、と彼を睨んだ。
そんな地位、彼女はこれっぽっちも求めていない。それなのに――
しかしすぐに目つきを和らげる。見知らぬ他人にこんな目線を向けるのは、あまりにも失礼すぎる。
「……失礼しました」
「いや、人から睨まれたり邪険に扱われたりするのは慣れたもんさ。目つきだけは一人前の忍者だな。目つきだけは」
「目つき、だけ?」
「だって一人前の忍者は、あんな奴らに背中を見せたりしない」
深い嫌悪感に襲われた。どうして他人にこんな言い方をされなければならないのだ。
「でもまだ発展途上だな。頑張って素敵な頭領になってくれ。きっと里の人もそれを望んでる」
ああ、まただ。
いったいお前は自分のなにを知っている? 自分に課せられた重圧をかけらも知らずに、慰めるつもりでも慰めになんかなりやしない台詞を吐くなんて、図々しい。
それを思うと、彼女の口からは言葉が溢れた。
「わたしは、そんな大仰な者ではありません。頭領なんて、本当は父上がなるはずだったのに……」
どうした、自分。
相手は見知らぬ他人だぞ?
それなのに、どうして感情をこれほどまでにあらわにしてしまうのだ。
「父上がいらっしゃれば、わたしはこんなうちから修行をしなくともよかったのに……生傷に苦しみながら床につくこともなかったのに!」
「おいおい、どうしたんだ? すずちゃん……」
彼女ははっとした。一瞬ここがどこか分からなくなるほど取り乱していたようだ。
乱れた布団の上に崩れこむ自分。そして対話する銀髪の彼。
そしてここは、小さな小さな小屋。使いこんだ土間もあるから、それほど小さくはないけれど。
改めて辺りを見回してみると、どうやら彼はここに一人で住んでいるようだった。
「なにか抱えてるんだろ? 話してみろよ」
「……それは、なりません」
「どうしてだ? 俺にだって、人の話を聞いてやるくらいの能力はあるさ」
あのように感情が抑えきれなかったのは、きっと悩みのせいだ。
自分が迷っているからだ。祖父の言った通りではないか。
彼女は居住まいを正し、彼に向き直った。
「傷を手当てしてくださったのは、あなたですか?」
「え? そ、そうだけど……」
「ありがとうございます。このご恩はいつかお返しします。それでは、失礼します」
彼女はまだ痛みの残る体を起こし、若干足を引きずりながら土間に下りた。
「おい、ちょっと待てよ……」
慌てて追いかけてくる彼を振り払い、小屋の外へ出た。
「助けてくださって、ありがとうございました」
彼女は風を起こし、それに乗って里まで飛んだ。
戸惑いの張りついた銀色の彼の姿が、嫌なくらい目に焼きついていた。