銀色の記憶【3】
*
彼は茶を淹れるために土間に立っている。完全に背を向けているので、こちらは一切見えないだろう。
良心が咎めたが、彼女は立ち上がり、その防具へと近付いた。
「しろがねの、かたびら?」
これを身に付けているところなんて一回も見たことがない。いや、彼から忍者の片鱗を感じたことすらない。
呑気な農民の家を思わせるこの小屋で、それは浮いて見えた。
触れてみる。かなりしっかりと作られているようだ。素材も自分のものよりいい。
「どうしてこんな高級なものを……」
そう思って他のものも見る。
自分の持っていないような、なにに使うか一瞬で分からないようなそれ。
手に取り裏返すと、布に家紋が綺麗に刺繍されていた。
「……これは」
この家紋は、この家紋は、この家紋は。
今は居ない両親にも、祖父にも、覚えるようきっちりと叩きこまれた家紋。
「……そんな、まさか……」
松があしらわれた、荘厳な家紋。
「しろがね、あなたは……」
藤林家の分家であり、分家中の最高家。
それは、彼が松葉(まつば)家であることを語っていた。
「……松葉、白鐘(しろかね)……」
「ん? なにか言った?」
振り向いた彼は、少女の手にしているそれを見て、目の色を変えた。
「……見たんだ」
はっと彼を見る。冷たい表情。
「……しろ、」
「見たんだ、それ」
彼の顔が、みるみるうちに忍独特の表情をなくしたそれに変わっていく。
油断していた。以前言っていただろう、彼は「一応忍者」だと。それなのに、どうして自分はこんなにも無防備なのだ。
「松葉のこと、知ってるんだな。当たり前か。藤林家の、最大の汚点だからね」
あんなへらへらとした顔をしていても、彼だって一人の男だ。
そしていくら箔の付いた名を持っていても、自分は修行すら満足にこなせない一人の娘。
完璧に油断していた。自分の誤りだ。なにをされても文句は言えない。
「その顔じゃ、俺のことも知ってる?」
「…………」
「ああ、なにも言わなくていいよ」
じりじりと近寄ってくる彼。彼女はずるずると後ずさる。
なに、その顔。今まで笑いかけてくれていたあれはどこ?
この感覚は、なに? まさか、怖じている? 松葉ごときに? 本家の次期頭領が?
ふざけるな。
「俺は、藤林の汚点である松葉家の汚点でもあるからな。救いようのない汚れ者さ」
どん、と鈍い音がして、背中が壁にぶつかっていた。もう、逃げられない。
「ひっ……」
「…………」
「や、やめろ! 近付くな!」
無言で迫る恐怖に駆られ、彼女は咄嗟に腰刀を握った。
「抜くな!」
びくんとして、手を離す。
「俺を敵にしちゃうんだ。丸腰とはいえ、こんな小娘には負けないよ」
ああ、誰だ、ここに居るのは。
怪我を優しく治してくれた彼は、どこに行った。
ここに居るのは、本当にあの優しい彼なのか。
「……松葉、白鐘……」
やっとのことでそう言う。彼は動きを止めた。
「藤林家の分家、松葉家第五十四代頭首の嫡男、松葉白鐘……」
「んー、それも今となっちゃ昔のことね」
「第五十五代頭首になることが約束されていたが、……松葉家を、勘当される……」
「いいよ、自分のことだ。よく分かってる」
そこで彼は、その冷たい表情をやめた。肩の力がふっと抜ける。
「藤林家の更に隠密である松葉家に、あってはならない、……失態」
「話すなよ。こんな俺でも、ちょっとはへこんだんだぜ? あの頃は」
そう言って、髪の毛を触る。
「さっきのは嘘だよ。生まれつきなんかじゃない。その時のショックで白くなったんだ」
「……何故?」
彼女は言葉を漏らした。
「何故あなたは、わたしを助けたのですか? わたしが藤林家の者だと知っても、あなたは変わらず接した――ましてや、二回も家に上げた。松葉家は、いや、松葉白鐘は、藤林家を恨んでいるはずなのに」
彼はおかしそうに笑った。
「俺は藤林のことなんざ恨んでないよ。俺の間違いだ。主である藤林家が下した判断は、適切だった」
――過去の失態。
松葉家第五十四代頭首嫡男・白鐘は隠密として、ある士官の暗殺を依頼される。暗殺は成功するものの、別の士官に姿を見られてしまう。白鐘は捕縛され、拷問を受けた。
責め苦に耐えかね、白鐘は依頼者及び松葉家の実態を明かしてしまう。それにより依頼者は死亡、松葉家でも大きな被害を出した。
忍としてあるまじき失態。
それを知った藤林家は松葉家にそれ相応の処置を下すよう命じた。それにより白鐘は命だけ助かるものの、勘当され、藤林家はもちろん松葉家にも一切関わることができなくなった。
「……藤林に睨まれるということは、それすなわち――わたしが言うのもおかしいですが、忍者としての人生を絶たれるということです。一度は頭首を約束された身のあなたが、たった一度の失敗で全てを失うことになるなど、恨んで当然です」
「忍者にとって失敗は死と同義だよ。たとえそれが一度であってもな」
彼女は伏せていた顔を上げる。そこには、優しい目をした彼が居た。
「なあ、すずちゃん。藤林という名を背負った君が、『たった一度』なんて使っちゃいけない。『もう一度』なんてないんだ。分かってるんだろ?」
「……痛いほどに」
「たった」一度の失敗で身を滅ぼした人間が、目の前に居る。
それだけでも充分だ。苦しいくらいによく分かる。
「君はまだまだ先があるんだ。俺のようには、なるな」
「……しろがね」
「その名で呼んでくれてありがとな。だけど分かってくれ。ここに居る男は、しろがねという善人を作ることで自らの罪を消そうとした、白鐘という名の罪人だということを」
「あなたは罪人などでは……!」
「罪を贖うことさえしなかった俺は、自害ものの罪人さ」
悲しげに笑う彼。
この短い間に自分は、彼のたくさんの表情を見てきた。
嬉しそうにはしゃぐ表情、ほがらかに笑う表情、忍者独特の冷たい表情。そして、今目の前にある、寂しげな笑み。
どれが彼なのだろうか。その全てが彼なのだろうか。
ころころ変わる表情が、ひどく羨ましく見える。
彼はすっと目線を外すと、彼女からゆっくり離れた。そして空(くう)を見つめる。
彼女はそんな彼の横顔を見つめたまま、黙っていた。
それからどれくらい経ったろう。
彼の美しい銀髪が夕焼け色に染まっているのに気付き、彼女は少し体を動かした。
ずっと同じ体勢だったので、節々が痛む。しかし、そんなことはどうでもよかった。
「どうした……?」
彼の柔らかな声。それと共にこちらを見る。
彼は眠そうに瞬きし、髪の毛をかき上げる。
改めて見ると、整った顔立ちに綺麗な銀髪をした彼は、大分格好いい部類に入るのではないだろうか。
そんなことを忘れるように、彼女は呟いた。
「……しろがね」
「ん?」
綺麗な髪の毛。
その髪の色は、彼が起こした出来事を表している。
戒めの、銀色――
「しろがねは、……考えたことはありませんか」
「なにを?」
そんなことは愚問かもしれなかった。
しかし彼女は訊いていた。
「忍者は感情を表に出してはいけません。しかしあなたは、そんなふうに笑ったり、怒ったりできる――それは、どうしてですか?」
「ん……」
「自分が忍者でなかったら、などと考えたことはありませんか」
彼は少しも驚いた素振りを見せず、答えた。
「あるよ」
「え?」
「そんなの当たり前だろ。そんなこと考えない奴なんて、人間じゃねぇよ」
そして再びなにもないところを見る。
「俺はな、すずちゃん。今の君なんかよりももっと小さい頃から、修行を始めたんだ」
「…………」
「親父は厳しかったよ。何度も何度も逃げ出してやろうって考えた。何度も森の中に消えちまおうと思った。だけど、どうしてだろうな。それはできなかったよ」
まるでそれは独白のよう。自らの過去を懐かしむのではなく、自分に与えられた台詞を一言一言紡ぐような言い方。
「いろんな修行をしたよ。だから松葉白鐘だった頃の俺は、表情なんかかけらもなかった。まるで人形だった。それなのに、ちょっとした拷問で口を滑らしちまうんだからな。なんのための修行だってな」
彼は苦笑した。
「今の俺は、里には行けないし、いろんな奴から後ろ指差されたりいろんな目で見られたりする。だけど俺は、それを不幸なんて思わない」
「何故?」
「今の方が大分幸せだと思う。人形みたいな俺よりも、毎日けらけら笑って、楽しんでる方が俺の性分には合ってるんだよ」
「…………」
少し、嫌な言い回しだった。
「それは、わたしが不幸だということですか」
「え?」
「笑ったり泣いたり、まるで人形のようなわたしは、不幸ということですか」
「そんなこと、言ってない」
「言っています!」
彼女の大声に、彼は一瞬たじろいだ。
しかし、すぐににこっと笑う。
「君は不幸なんかじゃない」
「…………」
「だって、君は今怒っているじゃないか」
「……え?」
「君は感情を捨てていない。ただそれを理性で抑えているだけだ。心の奥底には、年相応の少女が居るんだよ」
彼女は彼を見る。
彼も彼女を見る。
声すら出ない。
「……わたしの、中に?」
「そう。君は人形なんかじゃないよ。確かな少女だ。藤林すずという女の子。ただそれだけだ」
「忍者は感情を持ってはいけません。感情を持つことで、身を滅ぼした忍を見たことがあります」
「そうだね。君は賢い娘だ。だからこそ、感情を理性で抑えられているじゃないか」
なにも、言えなくなる。
彼の言葉は、どうしてだろうか。
忍者としての道を閉ざされた者が言うことは、何故だか。
……何故だか、聞く気持ちになる。
「感情を持った忍者は、邪道です」
「忍の掟は、感情を捨てろという意味じゃないんだよ。非情になることで、感情を操作しろということだ」
「……しろ、がね……」
「感情を全て捨てると、俺のような外れ者になりかねない」
彼はそっと彼女に近付き、彼女の手を取った。
「さあ、もう帰りな。その薬草を届ける相手が、待ってるんだろ?」
すっかり忘れていた。薬草をしまった胸元を見る。
「それに、お茶を一杯飲んだら帰るっていう約束だもんな」
「しろがね……」
「俺のことなんか、気にすんなよ」
半ば追い出されるかたちで外に出る。
彼女は振り向き、言った。
「しろがね。失敗したことを悔やんでいますか」
「どうだかな。もう、どうでもいいんだ」
「嘘です」
彼は間抜けに首をかしげた。
「あなたは、今でも忍者の道に戻りたがっています」
「そんなことない」
「そうでもなければ、『一応忍者』なんて自己紹介はしません」
「……そういうことばかり、覚えてるんだから」
「そうでもなければ、家紋の入った防具をあんなに大事になんてしません。毎日手入れしているあとが見られました」
彼はふふっと笑った。
「やっぱり油断できないな」
「……忍者ですから」
そう笑う彼の笑みは、悲しげな微笑みだった。
その顔が見たくなくて、彼女は言う。
「しろがね。もしよければ、……その……わたしから、……」
「松葉家に戻れるように、口添えでもするつもり?」
こくりと頷く。しかし彼は、笑いながら彼女の頭を撫でた。
「気のきく娘さんだな」
「ならば……」
「でもそれは無用だよ」
「……何故?」
彼は髪の毛をかき上げた。
「俺に対する藤林家、もちろん松葉や青梅の目っていうのは厳しい。いくら藤林家次期頭首の命(めい)で戻ってもつらいだけだ」
「しろがね……」
「今の方が、俺には合ってる」
くしゃっと笑い、彼は彼女の肩を押した。
「行きな。いろいろ楽しかったよ、ありがとな」
「……はい」
彼女はこわばった顔をできるだけほぐし、笑うような真似をして、言った。
「……また会えたら、いいですね」
「縁があったらな」
風に乗り、里へと向かう。
銀色の姿は、どんどん遠ざかっていった。
*
それからというもの、銀色の彼には一切会っていない。
やはり、お茶を飲んだら一切干渉しないという言葉のせいだろうか。
薬草を取りに行くたび、辺りを見渡しては茂みを越える。しかし、あの懐かしい小屋は見ない。それがあった形跡さえない。
会いたいなんて思っていたわけではないのに、いざ会えなくなると胸が切なくなる。
この気持ちの正体が、彼女には分からなかった。
「……分かる必要など、ないのかもしれません」
……忍者ですから。そう呟く。
しかし、彼に会ったことは後悔していない。
忍者、藤林、次期頭領――
そんな鎖に縛られていた自分を解き放ってくれたのは、あの優しい笑顔の彼。
彼だって、自分の犯した罪を表す銀色の髪に縛られていたくせに。
髪の毛を何度も上げていたことに、気付かないとでも思ったのか。
「すず」
「はい、おじいさま」
祖父の声がし、彼女はすぐに振り向いた。
両親が亡くなってからというもの、祖父はすっかり調子を落としてしまった。
今では、彼女がこまめに薬草を採りに行かなければならないほど、痛みがひどくなっているようだった。
「すまないが……」
「分かっています。薬ですね」
「……いつもすまないな」
「いえ」
彼女は祖父の腰を見た。湿布を貼っている腰が、痛々しい。
「おじいさま、どうかご自愛なさってください」
そして、いつもの刀を手に取る。
祖父は一瞬驚くが、すぐに優しい声で言う。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
彼女は表情を崩した。
そのこわばった笑みは、一人の少女そのものだった。
――世界を救う英雄たちが彼女の元を訪れるのは、もうすぐの話。
*あとがき*
こんにちは。ひじり、と申します。
わたしは今まで、ファンタジアの女性キャラの物語を数本書いてきました。
今回は初めてとなります、藤林すずちゃんの物語です。
途中ですずちゃんの口調が彼女らしくなくなっている気もしますが、目をつぶって頂ければ幸いです…
元々は短編の予定だったのですが、書いているうちにどんどんと長くなり…
それゆえにとても大切な物語になりました。もちろんどの物語も大切ですがね。
ちなみに、この物語では彼女が両親を殺したことになっています。また、それからクレスたちが彼女に会うまでも時間が空いています。
それは、わたしが初めてファンタジアをプレイした時、そのような状況だったからです。
すずちゃんが両親を殺してしまった時、自分の未熟さを恨みました(何
ええと、気まぐれにまたお話を投稿するかもしれません。
こんなわたしが言うのも失礼ですが、気長に待っていてくだされば幸いです。
あとがきのくせに長文になってしまってごめんなさい。
最後に、これを読んでくださったあなたに最大の感謝と祝福を。