おもいでうります。
自分の身に起こっただなんて、信じられないと今でも思う。
英雄扱いされたって、嬉しいとは思わない。
自分はただ、世界がそのままでいてほしいと、そう願っただけ。
あの冒険劇は、自分と仲間を結んでくれたもの。そう思う。
自分の名前はミント・アドネード。
その前に英雄なんて要らない。
ある日、ミントは買い物に出掛けた。
今日の夕飯は何にしようか、と考えながらてくてくお買い物。
顔馴染みになったお店の人と、他愛もない会話をしながらのんびりお買い物。
ふと目線を外すと、そこには小さなお店があった。
店頭には何も並んでいないのに、入り口の張り紙にはこう。
【おもいでうります。】
「……おもいで、うります?」
彼女はちょっと心を惹かれ、ゆっくりとその店の前に立った。そして、勇気を出して戸を開ける。
「ごめんください」
きな臭い匂いが鼻を突く。少しむせながら、カウンターの前に行く。
周りには高い棚があり、窓一つない。棚にはびっしり瓶やら箱やらが並べられていて、今にも崩れてきそうだ。
「……あのぉ……」
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、声がした。姿は見えない。
「何のご用でしょうか」
「あっ、あの、表の張り紙を見て、来たんですけど……」
「おもいで、お買いになりますか」
その声が、どこかで聞いたことあるのは気のせいだろうか。
「その、おもいでっていうのは、その、何でしょうか?」
「あなたの思い出です。あなたが今まで過ごしてきた時間を、当店では『おもいで』としています。お買いになれば、その思い出に戻ることができるのです」
思い出に戻れる。
声は確かにそう言った。
つまり、過去に戻れる。
そんなこと、できるわけがない。時空の剣でもなければ、そんなことできない。
「お買いになりますか」
「でも……」
「安全は保障されています。値段も20ガルドとお安くします」
声の代わりに息を吸う音がして、のそりと手が出てきた。その手は、小さくて可愛い。
「お買いにならないのならば、お帰りくださって構いません」
その声は「ただ」と続けた。
「思い出を懐かしんでいるあなたにはぴったりの買い物だと思われます」
ミントは財布を開けた。20ガルドだったら悪くはない、入っている。
ただ、どうしても信用ならない。
「……でも、私は……」
「お買いになりますか」
――勇気を出してみて――
ふいに、仲間が言っていた言葉が蘇る。その仲間は長生きする種族だから、いつか出会えるだろうか。
「……じゃあ、買います」
そう言って20ガルドを渡す。声は少し明るくなって、
「お買い上げ、ありがとうございます」
と言った。
「ただし、おもいでに触れたら今のあなたはありません。つまり、おもいでを変えると、現実が変わってしまうのです」
ミントは頷いた。
「では、どうぞおもいでを楽しんできてください」
瞬きをして目を開くと、もうそこに店はなかった。
そこは、鉄格子と煉瓦で囲まれた、牢屋。
ここは嫌いだった。
今でも嫌い。
暗くて、冷たくて、孤独感が心を襲う、嫌な場所。
よりによって、こんなところに戻ってくるなんて。
「お母さんっ……」
ここで彼から、母が亡くなったことを知らされた。今ここを抜け出せれば、母を助けられるかもしれない。
「現実が変わってしまうのです」
あの声が聞こえた。どこからか。
そう、過去を変えると今の彼女はない。
そう思って、大人しく座りこんだ。
「……ごめんなさい、お母さん……」
何もできない自分が居て、そんな自分が嫌になる。
だから、彼の救いを待つしかなかった。
確かに、あの頃とは違う。あの頃は母の無事を祈り続け、先の見えない明日はあるのかと考え、救いの手は来ないと思っているくせ待ち望んでいただけだった。
けれど、今では違う。
今では、明日何が起こるのかがはっきりと分かる。
「誰か居るの?」
――この声は――
自分を救ってくれた、そして世界を救ってくれた英雄。
「……クレス……さん……」
「え? 何か言った?」
「……いえ、何でもありません……」
彼女はすくっと立ち上がる。
「母は?」
「え?」
「向こうの牢に居るはずなんです……」
居るはずなんです。
でも、もう亡くなってるはずなんです。
「……あ、あの、その……」
まただ。また、彼の寂しそうな表情を見ることになった。
「分かりました。そういうことなんですね」
できるだけ笑って、彼を見据えた。
「私も、お供させてください」
それからの日々は、あの頃の繰り返しだったけれど、ひどく楽しかった。
もう会えない仲間と一緒に過ごす日々は、どこか新鮮だった。
けれど、いつこの「おもいで」は失ってしまうのだろう。
いつ、現実に戻ってしまうのだろう。
そうどこかで心配しているけれど、今はただ。
このまま、幸せを噛み締めていたかった。
「……綺麗ですね」
常闇の町にぼんやりと灯る明かりが、幻想的で、すぐに溶けてしまいそうで。
隣に居る彼の温もりだけが、冷たい中で現実味を帯びていた。
「僕に未来は分からないけど、世界が平和でいてくれるといいな」
「平和ですよ」
ついつい、明日を知っている自分は喋りたくなる。
「世界は平和です。そして、……私とクレスさんが、」
「駄目だよ」
え? と、心の中で問う。
「僕に……それを聞く資格はないんだ」
だんだんと視界がぼやけてゆく。
どうして? 自分は再び、幸せを失ってしまうの?
「……ごめんね、ミント」
私は、あなたにそんな表情をさせたくなかったのに……
世界はぼやけ、記憶は戻り、自分は再び現実に。
「おかえりなさいませ」
「あの……私は……クレスさんは……?」
声は、少し申しわけなさそうだった。
「私のミスです。未来を他人に話していけないと、忠告を忘れていました」
「いえ……。あの、もし、私があそこで話さなかったら、あのあと私は?」
「ここに戻ることはできずに、おもいでの世界で暮らすことになっていました」
背筋がぞくっとする。
「……それでも、こっちの世界の時間は、規則正しく進んでいくのですか?」
「はい」
抑揚なく、きりっとした返事がする。
「それが幸せなんですよね」
何だかその問いが、自分を暗黒の奥底に突き落とすようだった。
「……人の幸せは、それだけでは測れません」
「そうですか」
奥から手が伸びてきた。そこには、20ガルドが載っている。
「どういうことですか?」
「おつりです」
にこっと笑った雰囲気がして、ミントはそれを受け取った。
「またどこかでお会いしましょう」
声に言われ、彼女は微笑んだ。
「それでは」
*あとがき*
初めまして。ひじりと申します。
つたない文章ではございますが、目を通してくださったあなたに最大の感謝を。
そして、いきなりあとがきを読んだあなたには、本文もご覧になることをお勧めします。
それでは、またお目にかかりましょう。